永昌寺 (中津川市)
永昌寺 | |
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所在地 | 岐阜県中津川市馬籠5358 |
位置 | 北緯35度31分37秒 東経137度33分58秒 / 北緯35.52694度 東経137.56611度座標: 北緯35度31分37秒 東経137度33分58秒 / 北緯35.52694度 東経137.56611度 |
山号 | 西澤山 |
宗派 | 臨済宗妙心寺派 |
本尊 | 釈迦如来 |
開山 | 澤堂智仁 |
開基 | 島崎吉左衛門重通(道斎)または島崎重綱 |
札所等 | 木曽西国三十三ヶ所観音霊場三十二番 |
法人番号 | 9200005009553 |
永昌寺(えいしょうじ)は、岐阜県中津川市馬籠にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は西澤山。木曽西国三十三ヶ所観音霊場三十二番。
歴史[編集]
島崎藤村の小説である夜明け前で「万福寺」として登場する寺として知られている。
開創時期は不明であるが、馬籠島崎氏の祖である島崎吉左衛門重通が開基し、木曽福島の長福寺七世の澤堂智仁を勧請して開山したと伝わる。[1]
また島崎重綱が馬籠に移住した際に、島崎家の菩提寺として寛文5年(1665年)に創建したとも伝わる。[2]
島崎家は、元は武家で、天正12年(1584年)、木曽義昌の命で島崎重通が馬籠城の城主となり、木曽氏が下総に移封になると、馬籠に土着し江戸時代は馬籠宿の本陣・庄屋・問屋を歴任した。
寄棟造りで瓦葺の本堂は、江戸時代後期の寛政5年(1793年)に再建されたもので、
木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺、平入、桁行7間。山門は切妻、桟瓦葺き、一間一戸、四脚門。それに続く庫裡は落ち着いた佇まいを見せている。
境内には観音堂と鐘楼がある。近年に増築された建物には、宿坊の万福庵がある。
永昌寺の墓地には、島崎藤村の遺髪と遺爪の一部が納められた藤村の墓碑や、藤村の妻と4人の子供の墓碑、小説「夜明け前」で登場する「青山半蔵」のモデルとされる藤村の父の島崎正樹の墓碑などがある。
島崎正樹[編集]
島崎正樹は、明治8年(1875年)に飛騨一宮水無神社の宮司となり、権中講儀を兼ねていたが、
明治11年(1878年)、明治天皇の北陸地方巡幸に際し、憂国の建白を試みて叱責され、挫折をくり返した末に精神を病んだ。
明治13年(1880年)に馬籠へ帰郷したが、後に島崎家の菩提寺である永昌寺を放火した。
明治19年(1886年)年11月29日、島崎家家中の座敷牢の中で死去した。
文化財[編集]
①本堂の脇の観音堂に安置されている木造阿弥陀如来座像は、桧材の一木造で、像高58cm。手の部分の損傷が酷く、印相も判らないが、優れた作品である。
寺伝では薬師像となっているが、名古屋大学の教授であった佐々木隆美や、彫刻家の石井鶴三は、髪際の円さ、臂張の緩やかさ、後ろの襟の唇の線より低い点などから、平安時代末期(12世紀末)に製作された阿弥陀如来像と推定した。
以前は境内にあった小堂に安置されていたが、雨漏りがするようになったため、観音堂内に移した。元は馬籠周辺で廃寺となった寺の本尊であったのではないかと推測されている。
②本堂の脇の観音堂に安置されている木造聖観音立像は、江戸時代前期に円空上人が彫り込んだと伝えられる一木造で、像高は53cmである。
③永昌寺の寺宝である紙本墨書大般若経は、鎌倉時代初期の建保3年(1215年)に製作されたものを、室町時代初期に写経したもので、全600巻の内、第410巻と第450巻の2巻が現存する。
「美濃州 遠山庄 馬籠村 法明寺常住」と記載されている事から、鎌倉時代初期には馬籠村が既に存在し、法明寺が所有していたと推察できる。
④境内にある高さ68cm、幅35cmの青面金剛庚申塔
札所[編集]
永昌寺が所蔵する千手千眼観世音菩薩によって、木曽西国三十三ヶ所観音霊場三十二番札所となっている。
参考文献[編集]
- 『木曽路と島崎藤村 (歴史と文学の旅)』 永昌寺にて p73〜p90 瀬沼茂樹 平凡社 1972年
- 『寺と神社 (信州の文化シリーズ)』 永昌寺 p192〜p194 信濃毎日新聞社 1981年
- 『木曾路 : 木曾谷の歴史と文化 (観光資源調査報告 ; vol.5-6)』 (6)山口村 馬籠永昌寺 阿弥陀如来像 p26 観光資源保護財団 1977年
- 『日本文学の旅 第8 (東海文学散歩 第3 山道編)』 野田宇太郎 人物往来社 1968年
- 『探訪・信州の古寺 第3巻』 (禅宗) 郷土出版社 1996年